進化は幼形成熟(ネオテニー)から起こるという話を聞いたことがある。
前の世代の幼形がそのまま成熟することで、進化が進むという話。
幼形=未成熟とは、何かに特定化されていない=「まだ何でもない」こと。「何でもない」ということは、逆に言えば、「何にでもなりうる」ということである。そのため、柔軟に環境変化に対応しやすく、それが進化の芽である・・・ということか。
上のリンク先にもあるが、人間はサルのネオテニーであるという説もある。人間は、サルの胎児に似ているそうだ。
以上は、生物学的な進化の話であるのだが、精神的な面においても似たような構図をみることができるような気がする。
自分のアイデンティティを特定することなく、「まだ何者でもない」状態で居続ければ、その時の状況に合わせて、自分を変えることが容易になる。
自分は「こうである」と固く定義してしまえば、それが足枷になって、身軽に動けなくなってしまう。本当は精神という形の無い概念は、形が無いからこそ、いくらでも可塑性があるはずなのに、「こうでなくてはならない」と自縄自縛してしまう人は多い。
そんなことを考えて、昔の僕は、無限の可能性があるはずの自分を「こうである」と定義してしまうことが怖かった。それゆえに、できるだけ結論を先延ばしにして、極力「何者にもならない」ようにしてきた。そうすることで、無限の可能性を捨てずに済むと思えたのだ。
なんと言う思い上がり。
と、今は思う。
自分の可能性を(根拠もないのに)信じれば信じるほど、何かになってしまうことが怖い。「オレはまだこんなもんじゃない」などと思って。こんなレベルに身を置いてしまえば、成長が阻害される、とかなんとか。
しかし、現実は逆で、社会に出て16年、そんな「余計なこと」を考えずに、目の前のものに身をきちんと投じて、がむしゃらに粛々と何かを行ってきた人の方が、社会的には成功しているような気がする。
今の会社の社長も、友人にたまたまついていって出会った会社にそのまま入って、定年近くまで勤めたという。何も深い考えがあって、人生の選択をしたわけではないと本人の談。それが数十年後、その業界の第一人者となる。そして、還暦を超えた今なお、さまざまなチャンスに恵まれている。チャレンジができる機会がまだまだ残っているのだ。
逆説的だが、先にとっとと何かになってしまった方が、結局、可能性が広がるのではないだろうか。
何かに自分の身を投じることは、他の選択肢を捨てるわけなので、自分の可能性を減じるようで、多くの人は怖がるというのはわかる。
例えば、就職活動で1社に決めること。決めてしまえば、他社には行けない。オレほどのやつであれば、もしかしたら三菱商事に受かるかもしれない、ゴールドマンサックスに受かるかもしれない、とか思う人は、最初の方にもらった内定を蹴ってしまったりする。で、結局はそうはならないことが確率的には当然多い。
結婚相手を決める際、もし、何人か候補がいるのであれば、いつまでも迷い続けるような優柔不断な人もいる。そして、そのうち、どの子からも愛想をつかされてしまう。
ご飯を食べる時でさえ、トンカツ定食とカキフライ定食のどちらにしようと、延々と悩む人もいるぐらいである。しかし、2人前は一緒には食べられない。
しかし、そういうときは、「いま、目の前にあるもの」に集中して、ひとまずそれに乗りに乗ってみることが、自分の可能性を最大化する戦略であるのかもしれない。
そもそも、「本当にやりたいこと」なんて、ほとんどの人は持っていないのではないか。「本当にやりたいこと」を「探す」なんていうのは、語義矛盾であると思う。やりたいことなら、探すのではなく、どうやって消そうとしても消せずに、強迫的に生じてくるようなものではないのか。僕の面接経験においても、「本当にやりたいこと」を本当に持っている人の割合は、1割にも満たなかったように思う。
しかし、それでいいのだ。
「本当にやりたいこと」などなくたっていい。
むしろ、もし「本当にやりたいこと」などがあってしまったら、自分の能力とマッチしていればよいが、そうでなければ地獄だ。「やりたいこと」と「できること」は違う。
できなければ、させてもらえないし、もし万一させてもらえてしまったりなんかしたら、よい成果はでない。「好きこそものの上手なれ」という言葉もあるのだが、それは「本当に好き」=「どんな艱難辛苦を乗り越えてでも、努力し続けるぐらいの覚悟がある」という場合にのみ成立するような気がする。
そうではなくて、目の前にあること=できることをやり続けることで、経験値を積んでいけば、「できること」がどんどん増えていく。やっているうちに、成果が出て、よいフィードバックがあれば、それがインセンティブとなって、結局は「できること」が「やりたいこと」になっていくかもしれない。こちらのループの方が、強い因果関係であるように思う。
こんな風に、今自分の目の前に差し出された状況に乗っていくこと、言いかえれば「流れに乗る力」「流される力」こそが、それぞれの人の可能性を最大化させる力であると思う。
それができる人が「おとな」であると思う。
「こども」とは、自分の可能性を信じるという名のもとに、いつまでたっても、怖がって流れに乗らず、結果、何も生み出さない人。
「おとな」とは、目の前の現実を受け入れて、ひとまずそれに乗り、まず自分ができることをやって、少しずつでも何かアウトプットする人。
そんな風に思っている。
だから(という意識はなかったが)、僕は、実は新卒の時は、リクルートしか受けてない。最初に誘ってくれた会社だったから。他には就活はしなかった。でも、まったく後悔していない。それで、がむしゃらにやってみて、(まだまだ本当に全然ですが)とりあえず食えるぐらいにはなった。
他にも・・・
・飲み会は極力断らない。できるだけ最後まで行く
・ハンティング会社から声がかかれば話だけは聞く
・さまざまな会合や企画には極力乗ってみる
・あまり好き嫌いせず、人とは付き合ってみる
・本は乱読。特に、正反対の立場の人の本を読んでみる
・勧められたり、誘われたら、とりあえずやってみる
・すべてにおいて、できるだけ流れには乗ってみる
ようにしている(徹底できてませんが)。
流される人=漂流者=ドリフターズでありたいと思っている。
ただ・・・この戦略はとても体力が必要で、病弱な自分には少し辛くなってきているのが、玉に傷。今後どうするかはまだ未定です・・。