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人にやさしく 〜本当のやさしさとは〜

人にやさしく 〜本当のやさしさとは〜

今日、うちの会社のできる社長秘書にとれたコートのボタンをつけてもらった。(最初はうちの超できる女性役員にやってもらう可能性もあったが、恐れ多く思っていたら、社長秘書が引き受けてくださった)けして変な意味ではないが、少し萌えた。

人にやさしくしてもらえると、涙が出るぐらいうれしいときがある。特に弱っているときには、やさしさが身にしみる。

(偏見でしょうが、関西などの地方と比べて)東京で働いている人は肩肘張って自分をよく見せようとしながら突っ張って生きている気がするので(自分もある部分はそうかもしれない)、お互いにあまり人にやさしくする機会が少ないようにも思う。やさしさは弱さにも見えるから、強さが美徳の競争社会では、無邪気に人にやさしくすることが憚られ、ぶすっとした顔でクールに過ごすことになる。そうしてお互いに傷つけていく。

だから余計に東京砂漠でやさしさに出会うとくらっと来てしまう。

どんなことにやさしさを感じるか。

人それぞれやさしさを感じるポイントは違うと思うが、僕が感じるのは以下のようなこと。

僕にとって、やさしさの一番重要な要素は「自己犠牲」。僕はこのテーマに何故かとても弱い。自分のことを省みず、自分はマイナスを背負っても、誰かのために尽くすやさしさ。こういうタイプのやさしさにはもうノックアウトされてしまう。

みんなが後ろ指をさすときに、そんなことを何も気にせずに手を差し伸べるやさしさ。落ち込んでいる人、弱っている人がいると、悲しいかな、本能に突き動かされている動物としての人間達は、死者に鞭打つようなことを平気でする。マスコミのバッシングなどを見ていると、理性を失った人々の残酷さや、弱いものいじめを喜ぶ貧しき心性がよくわかる。そんなときに、そういう周囲の流れに乗らずに、自分も一緒に非難されることを恐れずに、自分の心の声に従って、手を差し伸べるやさしさ・・・ああ、素晴らしい。

「自分のことは後にする」(by河島英五)、というのも自己犠牲の一種。何でも我先に取る人が多い中、自分はみんなが取ってから残りがあるなら少し取る。みんなが全部取りきってしまったら、それはそれでもういい。自分がもらえなかったとしても、自分が好きな人たちが十分満たされたのであれば、そのこと自体に喜びを感じることができる。人の喜びを自分のものとできる。そんなやさしさが「後にする」行為には現れている。

「先に自分の手を見せる」というのもそうだ。世の中には駆け引きが多い。だから、相手を出し抜くために、自分の手は見せないようにすることが多い。自分の手の内を先に見せてしまうということは、自分はあなたに負けてもいい、相手に身をゆだねますよという自己犠牲的メッセージにもなる。身をゆだねるということは、相手を全面的に信頼しているという、孤独な人間存在が最も欲しい認知、「認めて欲しい」という願望を満たしてあげるやさしい行為だと思う。

恋愛はゲームとうそぶいている東京砂漠の恋人たちは、相手よりも優位に立つために自分から愛を告げるのではなく、相手から好きだと言わせたがる。しかし、そうではなく、相手がどう思うかなど関係なく、自分はあなたのことが好きで、あなたはそれを受けて自分の気持ちを考えて欲しい・・・と言えるのは、相当やさしい。

相手の弱いところにそっと手を触れてあげることにもやさしさを感じる。傷に塩を塗るようなハードな触れ方ではない。弱いところは敏感なところであるので、普通人は触れられることを恐れる。できるだけ触られないようにしようとする。だが、触ることは攻撃であることもあるが、守るために触ることもある。相手が本当に信頼できる人でなければ、触ろうとすることが攻撃なのか守るためなのかわからない。だから不安。それが守ってくれるために触ろうとしてくれていると一度わかったら、弱いところに触ってもらうことは大変な快感、心のやすらぎにつながる。

弱っている相手に「自分はあなたを守ろうとしているのですよ」と信じてもらうためには多大な苦労がある。面倒くさい。なにせ弱っている人は性悪説になりがちで、人を見れば泥棒と思えという人が多い。つまり、弱っている人に関わると、こちらは善な動機で接しているにも関わらず、あることないこと詮索されて悪い嫌疑をかけられて、ということになる。そんなマイナスも省みず、弱い人の弱い部分に触ろうとすることは自己犠牲的なやさしさをこれまた感じる。

最後に、「あえて悪役を引き受ける」というのもやさしさだと思う。もしかすると、やさしさの中でも究極のものかもしれない。というのも、表面的にはまったくやさしく見えず、相手からうらまれるかもしれず、最後まで本意を理解されないこともあるという、完全自己犠牲的やさしさだからだ。

例えばマネジャーが部下に、親が子どもに、行動を改めてもらうためにあえて厳しいことを言うなどはそれにあたる。「親の心、子知らず」で、その本意は長い間理解されることが無い。しかし、「悪役」にはそんなことはどうでもよく、自分がどう思われるかには無関心で、相手の利益だけを考えているのだ。ものすごく素晴らしい。

どうすればこういうやさしさを惜しげもなく人に与えることができる人になれるだろうか。こういうことができるのは一体なぜなんだろうか。

まだ自分の中でその秘密は解明されてはいないが、一つには過去に誰かにやさしくされた経験が後押しをしているのではないかと考えている。よきにつけ、悪しきにつけ、人はやられたことをやりかえす存在だから。

世の中にやさしさの連鎖が起こるように、自分も人にやさしくありたい。やさしくしてもらってばかりでなく。

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