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知らぬが仏 〜喜びを知ることの辛さ〜

知らぬが仏 〜喜びを知ることの辛さ〜

昨日から研修で逗子にいる。

何もないところで篭ることでチームの一体感を得たいと、宿舎のまわりはすぐ海という少し隔絶されたところにやってきた。

そのせいか、なんだかとてもさみしい・・・

さみしがりは僕の趣味だからいつものことなのだが・・・

一人だとさみしいかというとそう単純ではない。充実した一人の時間というものは確かにある。一方、大勢でいればさみしくないかというと、群集の中の孤独を感じることも多い。

さみしいとは、そこに必要な何かが欠落している感覚、何かが無いことに気付くことで感じる感情で、それを埋め合わせたいのにできないことを悲しむ気持ちである。だから、充足感があれば一人か否かは関係がない。

あるべきと感じるところにあるべきものがないと人は不在の感覚を持つ。つまり、不在を感じるには、その前に理想のあるべき状態が想定されていなければならない。

例えば、男と女がそれぞれの片割れであることに気付くのは、二人が一緒になった瞬間からである。それまでは自分は自分で一個の独立した、それだけで完全な完結した存在であると錯覚している。そしてその時はおそらくさみしくなんかない。理想のパートナーと過ごす時間の喜びが、別れた後の悲しみやさみしさを導く。

他の例で言うと、僕は幸いにも味音痴で、どんなものを食べても一定以上においしく感じることができる。これも、ミシュランの星のついたレストランの味をそんなに知らないからかもしれない。味にうるさい友人は何を食べても不満を述べて、辛そうだ。

理想の状態にあったことのない人は、真のさみしさを感じることはないのかもしれない。さみしさの根源は過去の幸せ、理想状態の経験であるとも言える。だから、楽しい時を過ごせば過ごすほどその後に待ち受けている欠落感が怖くなってくる。

そんなことを考えているから、僕は何でも心底楽しめなくなってしまっているのかもしれない・・・。得た瞬間から失うことばかり考えてしまうのは悪い癖だとは知っているのだが・・・。

とあほなことを考えていないで、今日も研修をがんばろう・・・

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