新着情報・ブログ

醜い自分を受け入れられるか 〜自己認知の難しさ〜

醜い自分を受け入れられるか 〜自己認知の難しさ〜

人事担当者(特に採用面接担当者)として一番必要な力は何かと問われるときには、いつも「自己認知ができているかどうか」と答えていた。

自分がどんな人間で、どんな偏見(とあえて言う。フラットに言えば、志向や価値観などの思考特性のこと)を持っているかということである。

もちろん、それ以外にもいろいろ必要な能力はあるが、自己認知力以外の力は相対的に獲得が容易で、かつ自己認知度の高低が面接評価の精度に与える影響が強いと感じていたからだ。応募者からの情報を偏見で歪めずに、評価できるかどうかということ。

しかし、この「自己認知」は大変難しい。

難しい理由はいくつもある。

まず、そもそも大人の人間は、何らかの特定の枠組みを持ってしか世界を認識し、意味付けすることができない。本来は連続的で曖昧で混沌の中にある世界を、何らかの分類枠で整理して、ノイズ(と勝手に思うもの)を捨て去り、自分が(勝手に)本質と考えるものを抜き出した骨組みで、世界を理解する。

簡単に言えば、「人は自分の見たいものしか見ない」ということだ。マーク・トウェインか誰かがこのことを「金づちを持つ者は、すべてのものを釘と見る」と言った。

自己認知をする際、自分の目で自分を直接見ることはできないため、「自分」が世界に与えた影響を見て、そこからその原因としての「自分」というものを想像する。世界がこうなってるのは自分がこうだからに違いないと考える。

つまり、自分を認識するのにも、外部の世界から情報をもらわないといけないのだが、その外部からの情報は、自分によって恣意的に選別され色づけられたものばかり。そういう状況にすべての人が置かれている。

自分についての情報は、意識的か無意識的かは別として、すべて自分の都合の良いように解釈してしまうのである。

例えば、自分をとても賢いと思っているような人は、自分が賢いと言うイメージを支える情報は取り、否定する情報は捨てる。人から批判されたりすると、その人を蔑むことで、その人からの情報を否定し、自己認知像を守ろうとする。

だから、結局、「人は自分がこうあって欲しいと願う自分を見ている」という状態になっていく。

これが根本的な自己認知の難しさの原因だと思う。

次に、日本のような婉曲表現の多い文化においては、他者から自分についての正しい情報を得ることが難しいということがある。

もし、自分が相手のある種の性質を苦々しく思っていたとしても、それをストレートに相手に告げようと容易に思うだろうか。僕自身、できればそういう態度でありたいが、なかなかできない。それは、そういう苦言は相手の「こうありたい自己像」とおそらく異なる情報であり、そのため、「こいつは俺のことをわかっていない」とか「攻撃された」とか思うのではないかと感じるからである。効果は少なくて、労力ばかり多いことのように思えるのだ。

そんなことを「わざわざ」してあげるのは、相手に対する忠誠心や愛情がとても強い場合に限られるのではないだろうか。わざわざ逆恨みされたいと誰も思わない。

人によっては、悪い情報を持ってきた「使者」を切る人がいる。その人はおそらく忠義の人だろうに、せっかくの自己認知を改める機会をそうして失っていく。そんな人には誰も本当のこと(「王様は裸だ」等)を言わなくなるだろうから、その人の自己像はどんどん歪曲していくこととなる。恐ろしいことだ。

自己認知を歪める要因の三つ目は、「社会的望ましさ」によるバイアスがある。実際の自分がどうあろうと、社会的に「こうあることが望ましい」と言われている既製品の人間像に、自分もそうであると、自己像を重ねてしまうことである。

ほとんどの人は、強弱はあれど、人からよく思われたいと願っている。だから、「これがよい」とされている人間像でありたいと思うのは自然。

例えば、こんなこと(あくまでステレオタイプの日本と僕が勝手に考えるものですが)。

・「暗い」よりは「明るい」
・「引きこもり」よりは「社交的」
・「利己的」よりは「利他的」
・「狭量」よりは「寛容」
・「金の亡者」よりは「清貧」
・「肉体」よりは「精神」
・「エロ」よりは「清楚」
・「変態」よりは「正常」
・「嫉妬深い」よりは「さっぱり」
・「矛盾」よりは「一貫性」
・「ずるい」よりは「正々堂々」
などなど。

いずれも大抵の人は自分はどちらかというと後者であると思いたい。しかし、周囲の人を見ていてどうだろう。自分を含めてですが、実際には前者の傾向を持つ人の方が大半であるのではないだろうか。

人間なんて弱いもの。だから、前者気味で当たり前なのに、突っ張って後者であろうとする。正確に言えば、後者であると思い込もうとする(後者になろうと努力するのではなくて)

嗚呼。

以上が僕の考える自己認知の難しい要因であるが、この3つの要因が相乗効果をもたらし、多くの人が正確な自己認知をすることを妨げている。

では、どうすれば正しい自己認知ができるのか・・・。

今の僕にはそれほど効果的な答えを確信を持って言うことはできないが、とりあえずできるのはこんなことか。

・自分に対する批判に寛容になり、批判してもらいやすい態度でいる。常にできるだけ上機嫌でいること

・自分は本当は社会的に望ましくない側面を持っているのではないかと仮説に持ち、そういう自分を嫌悪し過ぎず、認めていくこと

・世間で(特にマスコミで)よく行われる「死者に鞭打つ」ような袋だたきから距離を置き、様々な「悪」(と呼ばれるもの)を許す心を持つこと

・自分と意見の異なる人とよく付き合うこと

どれも「それができれば苦労しない」感じのものだが、今の僕にはこれぐらいしか思い浮かばない。

・・・

このように、自己認知は難しい。

しかし、さらに過酷な事実は、正確な自己認知をすればするほど、甘い幻想を捨てねばならず苦しいということである。醜い醜い自分を認めなければならない。その苦しみに耐えられるか。

また、実は社会的成功と自己認知は微妙にリンクしていない。甘い幻想に包まれて、自信満々でいる人の方が、実社会ではうまくいくことも多いものだ。

それでも、自己認知を極める道を選ぶのかどうか。

それはその人の人生観次第だと思います。

PAGE TOP