新着情報・ブログ

逆境を欲する気持ち 〜見えないものを証明するために〜

逆境を欲する気持ち 〜見えないものを証明するために〜

先日、京都で学生さん向けに採用面接における人事の視点についてのセミナーを行った。大阪大学の学生さんが主催していただけ、数十名の皆さんが集まった。

さすが、Twitterなどで自発的に発見してお越しいただいたような学生さんばかりだったので、大変顔つきもよく、僕のつたない話にも関わらず場の反応もとてもよかった。

今後はこうしたソーシャルメディアを通して人を集めていくことが主流になっていきそうな予感をさせる会であった。

それはさておき、そのセミナーの中の一つのテーマで、「面接で相手に分かりやすいエピソードは何か」というお話をした。

例えば、一人で頑張ったことよりも、集団の中で人と関わりながら行ったエピソードの方が、組織内での行動を予測させる情報をとしては良いとか、いろいろなことを言ったのだが、その中で「順風満帆にいったことよりも、逆境を乗り越えたようなエピソードの方がよい」と言うことを伝えた。結果、失敗に終わったとしても、その方がよい場合すらあると言った。しかし、面接はPRの場であることから、人はうまくいった話をしたがるのも心情。だからこそ気をつけようと述べた。

順風満帆なエピソードはもちろんけしてダメなことではない。しかしそのエピソードからは、その人自身の特性がなかなか引き出せないことが多く、面接担当者がその話を聞いても、「よくわからないなあ」と言うことが多いからだ。

うまくいった順風満帆系の話を聞いて、(職業柄意地の悪さを求められる悲しき)面接担当者の脳裏に浮かぶのは、「ラッキーだったんじゃないか」「周囲の応援や、環境のおぜん立てがあったのではないか」「実は結構簡単な楽勝課題だったのではないか」などと言う仮説が沸き起こってしまう。そのため、応募者が話す話を全幅の信頼を置いて認定することができないのだ。話半分で聞くしかなくなってしまう。そしてインパクトは薄れていく。

一方、逆境を乗り越えた話は、それらの疑念があまり起こらない。結果まで辿りつくまでにあった壁(障害)を認識することで、やり遂げたことの重大さ、大変さが身にしみてわかる場合がある。「どれだけ孤立無援であったか」「どれだけ抵抗勢力があったのか」「どれだけ少ないリソースしかなかったのか」「どれだけ道のりが遠かったのか」「どれだけスタートラインが悲惨な状態であったのか」ということは全て、その人の持つ潜在的な能力のある種の証明として機能する。

このため、僕は同じような粒のエピソードであれば、できるだけ「逆境を乗り越えた」エピソードの方が分かりやすいとお話している。

これは他にも様々な日常生活においても、ありうることだと思っている。

昔の話になるが、汚れっちまった現在と異なり、まだ純粋な熱い心を持っていた学生時代の僕は、熱烈に好きになった人に対して、どうすればこの内心を相手に伝えることができるかともがき苦しんだことがある。

言うまでもなく、人の心などは直接見ることができない。どのような気持ちであっても、相手に直接伝わることはない。そのため、もし、自分の気持ち、思いを相手に伝えようとするなら、何か具体的な行動を持ってして、間接的にその証明をするしかない。

「そんなことまでするということは、おそらくこういう思いを持っているのだろう」という推測を相手に与えることが、最大限できることであろう。

自分の思いが強ければ強いほど、そしてそれを相手に分かって欲しければ欲しいほど、行動化の程度もはなはだしいものでなくてはならない。自分の気持ちに見合わない。

そういうわけで、僕は、屈折した心持ちであると確かに認めますが、相手との関係において、何か逆境や障害や壁が現れてくれないかと祈った。

もし、そういう逆境が僕と相手の間に降りかかるのであれば、そういうことこそが、伝えようにも伝えることにできなかった、相手に本当に理解してほしいと思っていた思いを証明するチャンスであると思ったのだ。

まあ、幸か不幸か、結局逆境は訪れず、僕の思いを理解することなく、相手は僕を足蹴にしたのですが・・・嗚呼。

他にもある。

僕がリクルートに入社することを決めた17年ほど前は、まだリクルート事件の余波が色濃く残る時代であった。自分がリクルートに入ると家族に言った時、明らかに親は戸惑っていたように思う。これまで手塩にかけて育て、成功を祈っていた子どもが、リクルートという(その頃は)汚れた印象のぬぐえない企業に入って行く。いや、感覚としては奪われていくと言った方がよいかもしれない。なので、親は「まだ就職活動続けるんだよね?」と暗にリクルートではなくて、他のもっといい会社を探しなさいと言っているように思った。

しかし、僕にとっては、それは逆にリクルートに対する愛情を深めることにしかならなかった。自分がこの目で見てきて、これは絶対にいい会社だと思ったリクルートに対する気持ちを、証明するいいチャンスではないか!と。

こんな逆風の中、印象の悪い中で選ぶ判断こそ、純粋なものであると信じていた。「僕はけしてリクルートが『人からいい会社と思われているから』入るのではなく、僕自身が自分でいい会社と思うから入るのだ」と誇らしく思ったぐらいだ。

実際、僕よりも大変な時期にリクルートに入社した人達もいらっしゃる。事件のまっさなかに内定者だった人のうち、約半数は辞退をしたと聞く。しかし、半数はそれでも入社したのだ。そういう彼らは実は今のリクルートの役員などの経営層の中核にいたりする。本気の思いを持って入社した人が頑張って支えたからこそ、リクルートの今がある。

人は人の心を完全に理解することはできない。皮一枚越えられない関係だ。

だからこそ、誰もが相手から理解されたいと悲しき切望を持って生きている。

その(本当は絶対に満たされることのない)願いを少しでも叶える機会が、逆境であると僕は思う。

逆境はもちろん辛い大変なことであるが、そこには一服の甘さがあるように感じるのはそういうこともあるからではないだろうか。

ちなみに・・・別に僕はマゾではありません。

PAGE TOP